将来に興味を持つ皆さんへ

このブログでは、子ども大人問わずあらゆる勉強法のノウハウを私自身の経験を基に書いていきます。

なぜ国語を勉強するのか。

今回は、「なぜ国語を勉強するのか。」その国語を勉強する意義について書きたいと思います。

 

これに関しては、様々な意見があるとおもいます。子どもたちは「日本語話せるし、勉強せんでいいやん。」とか言います。全然日本語知らないくせにと毎回思いますが。笑

 

私が国語を教えてきた上で出た見解を、大きく2つ挙げます。もちろん漢字を覚えるだとか、たくさんの言葉を知るということは大前提として、その他のポイントを書きます。

 

1.より多くの疑似体験をすること。

 

私は子どものころに、できるだけ多くの実体験というのが必要だと思っています。体験するということが、その子の性格だったり、考え方だったり、語彙力だったりにつながります。

 

例えば、テレビで料理番組を見るより実際に料理をした方がよいと思うし、世界遺産の写真を見せるより、実際に現地に行ったほうがよいと思っています。

 

何事も決定する際には、自分の今までの経験則から判断を下します。より、正しく、自分が納得できる判断を下すためには、より多くの判断材料があったほうがよいです。そのためにたくさん、実体験をすることが望ましいと思います。

 

私は「擬似体験」と書きました。

 

様々な文章を読むことで、自分の知らない世界を知ることができます。「今世界はこんな問題を抱えているんだ。」「こういうことで悩む人がいるんだ。」「この場面でこういうことを考える人がいるのか。」など、狭い世界で生きている子どもたちの視野はどんどん広がります。(大人より子どもたちのほうが視野が広いという見方もできますが、今回はそれは置いときます。)

 

国語は、文章をただ読むだけではなく問題を解きますから、文脈や一つ一つの言葉について深く考えながら読み進めます。だから、「読書」ではなく、「国語」をする意義があるのです。

 

2.非日常的な言葉を知る場である。

 

これは、たくさんの言葉を知るということに似てはいますが少し違います。

 

例えば子どもたちは「たまたま」という言葉は知っていても、それと同じ意味の「偶発的に」という言葉はあまり知りません。大人でも普段なかなか使う言葉ではありません。漢字を見ると何となく意味は想像できますが、子どもたちはすぐには理解できません。

 

中学受験をする場合、文章題にこのような言葉が、ごろごろ転がっています。新聞や書籍の中にも転がっています。社会に出たときに、ふと触れる機会があるかもしれません。

 

「知らない」ことで不便はありませんが、「知っている」ことに価値はあると思います。

 

小学校の国語でスポットを当てて学習することはありませんが、このような言葉とのはふとした出会いがたくさんあります。

 

人との出会いもかけがえのないものですが、言葉との出会いもかけがえのないものです。

 

 

以上2点が、「国語を勉強する」私なりの見解です。

もちろん、多くの意見が他にもあると思いますが、それはそれで正しいと思います。それだけ国語という教科は深いですから。だから私は国語が好きというのもあります。

 

 

まとめ

 

1.より多くの疑似体験をすること。

 

2.非日常的な言葉を知る場である。

 

 

 

次回は一旦国語から離れまして、「夢を持つ子への接し方」について書きます。